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【住所】〒661-0974 兵庫県尼崎市若王寺2-36-1アダージオ若王寺1F
【TEL】06-6493-6100 【FAX】06-6493-6100 【定休日】水曜日 【営業時間】10:00〜19:30
【田舎育ち・・・自給自足の幼少時代】 僕はすごく田舎で育ったんです。九州の大分です。 田舎で育っているのでいろんなフルーツや食材・・・天然のものがすごくたくさん身近にありました。庭の前には栗などのフルーツ、後ろには葡萄とかさくらんぼとか・・・。牛乳は近くの仲の良い友達の家で朝ビンに入れてもらっていました。 それを持って帰って、昔はかまどでしょう・・・、かまどの横に余熱でお湯を沸かす部分があるんですよ、そこに一升瓶に入れた牛乳を置いて、湯銭で殺菌してそれを飲む・・・。 今考えたらとんでもなく贅沢なことです。子供ながらに味の違いがわかるんですよ。「あそこの牛乳はこんなんで、ここのはこんなんだ…」ってね。 卵は隣のお家から、今で言う平飼いの卵を頂いていました。水は今でも田舎へ帰って飲むと本当に美味しいです。全てが天然です。イチゴも生っていたしハーブもあったし・・・。お店で買った覚えがありませんでした。 すごく変わった子でしてね、とにかく勉強はしませんでした。周りが自然だから学校へ行って帰ってきたら竿を持って魚釣りへ行きました。そこへ行くと友達も必ず来ているし・・・。そういうところで育ちました。 小さな頃から食べ物に関して興味を持っていました。小学校の頃からクッキーとかよく作っていたんです。どうやって作っていたのか・・・ バターもそんなに出回っていない頃でしたがケーキ作りをしていたことを覚えています。最初の一歩はまずそこからです。たぶん、母親の妹の影響だったと思います。
僕は今48歳ですが、45年位前だったら生クリームは山奥なのでほとんどないでしょう。当時母親の妹が林檎をシロップ煮にして、生クリームの代わりにメレンゲを細かく立ててその上にかけて、グラスに入れ、おやつに出してくれました。未だにそのときのインパクトが鮮明ですよ。 ハチミツ入りでした。バニラはないけれど何か庭に生っていたハーブを入れていたと思います。45年位前にですよ・・・。お菓子というより食べ物という感覚です。そのイメージがあって、それからすごく興味を持ちました。 食べて、美味しくて、感激がありました。その頃おばあちゃんもおやつに今で言うクレープを作ってくれていました。はちみつを薄く塗って巻いてくれていたのを覚えています。 ・・・今考えればその頃の環境や味覚が今の一番のベースになっているかなぁと思います。
【食に興味があった・・・・産業高校の食品化学科へ】 高校は今で言う産業高校の食品化学科でした。この高校へは、食べ物に興味があったので行きました。食の全般についてなので缶詰類からフルーツの加工もお茶も作りました。中学の先生にはこの高校は無理だと言われました。 同じ学校の同じクラスから8人受験するという話になってね・・・。先生は必死に止めて回っていて、でも8人とも譲りませんでした。僕はたまたまギリギリで受かったみたいですよ。(笑)毎年すごく人気のあった学科です。こういう専門的な学科は県下でも少なく、全国レベルでもその頃レベルが高かったようです。高卒だけども食品系の企業や大手の薬品系企業へたくさん就職していました。 そこは、本格的な設備が整っている学校でした。その頃で一台30万円以上するような化学天秤がずらーっと並んでいました。今考えたらすごくレベルの高い授業をやってくれていました。 テストでは学校でお肉屋さんにさがっているような豚を加工しないと単位が取れいような課題もありました。自分でブロックを作ってプレスハムを作るのとベーコンを作るのとブロイラーの燻製を作るのを全部1人でやらないといけない・・・ちゃんと骨も外してね・・・。今考えるとすごい施設ですよ。燻製室なんかも本当のプロが使用するようなところでした。
【東洋ホテルへ就職】 高校を卒業して大阪の『東洋ホテル』に就職しました。それまでは九州に居ました。高校からは『東洋ホテル』へは僕が初めての入社でした。 今「おいしんぼ」という漫画があるでしょう?それと同じように僕らの頃は「味平」という漫画があったんですよ。 その中に東洋ホテルの料理長が出てきていたんです。それで、単純に「僕はここに行こう!」と思いました。 その試験は作文などがあって、受かった後に人事の人に呼ばれて・・・、「野口君、受かったけれどテストは最低やったよ、もうちょっと漢字を勉強しなさい。」と言われました・・・。漢字は間違っているし誤字もあるし、テストの点数では最低だったらしいですよ。でも文章の中からやる気が感じられたそうです。だから受かったみたいです。
東洋ホテルでは、パティシエになるときサービスを1年やらなきゃダメなんですよ。お客さんの接客をやってからしか厨房へ入れない。その頃の東洋ホテルはものすごく勢いのあるホテルで、その頃でフレンチレストランの「クラウン」はけっこう有名でした。レベルの高いお客さんや芸能人も多かったです。 同期も調理だけで20人居ましたからね。その年は60人ぐらい新入社員がいたんじゃないかな・・・。 トップレストラン「クラウン」のサービスに毎年新入社員の中から2,3人の配属になるんです。そこへ行けた子は必ずエリート。頭の良い子しか行かないんですけれど・・・、そこへまかり間違って配属になってしまったんですよ! 次の日からオーダーが全部フランス語で・・・わからないんですよ、全然・・・。ウエイターの仕事を覚えるために毎日最低でも仕事が終わってから2時間勉強しました。メニューとその中に使われている食材を覚えることと、16階のレストランから見えるビルの説明が出来るように、・・・その頃はこのホテル以上高いビルがなかったので・・、・初めてそこで勉強しました。 今まで勉強もしていないし漢字も知らないのに次の日からオーダーに全部フランス語で書いてある・・・。分かるわけが無い。 ウエイターの仕事でもその頃の「クラウン」は朝出勤して、1本1本シルバー磨きして、グラスをからぶきして、掃除機をかけて、テーブルクロスを替えてランタンのろうそくを全部変えて、ワイン1本1本磨いて・・・それでやっとスタンバイでした。 今考えると理想的なレストランだと思いますよ。クラウンの配属は1年の予定が、僕だけ2年残されたんですよ。実際のサービスをするトップになって、新しい子達をまとめる立場になりました。でも・・・どうしてもやはりケーキを作りたかったので・・・。ホテルへ入った時点でお菓子をやりたいと決めていました。だから人事にまで掛け合いに行きました。 サービスを2年した後、ベーカー部門へ配属になりました。そこはペストリーとブーランジェの両方をやっていました。その頃ペストリーが16人ほど居ました。 始めはまず洗い物からです。優しく手伝ってくれる1つ上の先輩も居ましたが、基本的に洗い物全員の分と全員のコートの準備。全部番号が書いてあるんですよ。ホテルの中のランドリーへ行って帰ってきて、箱に分ける仕事と倉庫の掃除と在庫管理と・・・、在庫を見てシェフに何を発注するかを聞く・・・。今で言うアシスタントシェフがやるようなことをここはまず最初にやらせてもらえた・・・。 この時に悩んだことは・・・、とにかく分からないんですよ。材料の種類も多いしどこに何を置いているのかも・・・。 これは普通どおりノートに書いても無理だと思い、上から見たらもっと分かるんじゃないかと思って、厨房の絵を立体的に上から見た図を書いたんですよ。そして次に冷蔵庫だけをアップした絵を書いてここにどんなものが入っているということを書いていったんです。するとみんなと同じペースで仕事をできるようになりました。 その時にきつかったけれど優しかった先輩に松尾先輩がいらっしゃったんですよ。松尾さんは今、東洋ホテルのシェフをされています。よくぼろぼろに怒られたけれど色んなことを教えていただきました。 シェフが朝早く出勤されるので、どうやったら仕事が早く出来るのかを一生懸命考えました。 ホテルは朝、まかないを作らないといけないんですよ。料理したこともないのに出来るわけがない。 その時一番ひどかったのが、「今日はカレーにしよう」と思って食材を取りに行ったらカレーのルーを「それ持ってけ」と言って渡されたんです。鍋に入れていたら、「お前ブイヨン持っていかないとできないよ」と言われました。カレーってインスタントカレーのイメージしかないでしょう。ルーをブイヨンでのばすなんて全然知らなくて・・・。「えっブイヨンですか?」っていってとりあえずブイヨンでのばしていったらものすごい量になって・・・、おもいっきり怒られました。そんな失敗がまかないではいっぱいありました。 不味かったらね、一口食べて目の前で捨てられるんですよ。そんな時は、上の先輩が気を使って和食のほうへ行って和食の料理を持ってきてくれました。でもね、よく考えたら、まかないも勉強になります。味付けというのは、ただ作れば良いのではなくて、食べる人が好む味付けをしなくてはいけない。「シェフ、何が嫌いなんですか?」などよく聞きました。新人にまかないをやらせるのは考えがあったんだと思います。今ある素材で一番ベストのものを作るという勉強なんです。 東洋ホテルは4年しかいませんでした。僕の場合、洗い物の合間にする仕事が仕上げだったんですよ。 僕のイメージではお菓子は粉から作りたいというのがありました。ホテルはシステムがしっかりしているだけに粉を触るまでに10年ぐらい掛かるんです。今考えれば落ち着いてそのステップを行けば良かったのだけど、その時の気持ちはやはり粉から触らないと作っているという実感がなかったんです。 その頃の東洋ホテルはすごく待遇が良かったんです。30年ぐらい前になりますがボーナス18万円位ありましたからね。よく覚えています。11月でもうすぐボーナスだというときに「辞めさせてください」って言って、みんなに「お前、もうすぐボーナスだよ!」と言われました。でも、街へ行くにはやはりクリスマス前に入りたいと思っていたのでその時期にやめました。
【粉が触りたい・・・・『ローゼン製菓』へ・・・6000台のクリスマスケーキ】 辞めて・・・、ワッフルの「マネケン」ありますよね、『ローゼン製菓』というところに就職しました。 希望通り仕込みで、粉から触らせていただきました。 そこがとんでもないところでね・・・。年々クリスマスケーキの生産量が倍倍に増えていったようで、僕が入った年は6000台あったんですよ!でも技術者は15,6人しか居ないんですよ。あとはパートの人だけ。その人数でクリスマスケーキ6000台作るんです。 その年のことはよく覚えています。その年、クリスマスケーキを6000台作って残ったケーキが12台だったんですよ。その頃5店舗ぐらいありました。1店舗1000台以上売っていました。営業力もすごかったんだと思います。
その時の社長は職人上がりの方で、スポンジがそれだけあっても一切冷凍しないという考えだったんですよ。 毎日1000台ずつ焼きましたもん。それも今の普通のオーブンでですよ!6枚出しのオーブンで1000台・・・忘れられません。 ミキサーボールで90コートってあるんですよ。卵を1回に5キロずつ合わせたら早く立つんですよ。誰も信じないけれど、その全卵を全部手であわせていました。それを36回ぐらい回すと5号とか4号だったら1000台になるんですよ。それを夜10時ぐらいから始めて明け方の6時ぐらいに終わるんです。腕はパンパンですよ。 1回でも失敗するとダメです。釜と釜の入れ出しの間隔が3分以上になったらがたがたになるんです。6枚の鉄板が入るスペースが4台だけですから。その時僕の上に先輩で越智さんという方がいらっしゃったんです。その方がすごく頭の切れる方で、計算計算計算で、「この量だとこの時間でコレだけ焼けるから」って言ったらその通りに焼けるんです!すごい計算をする人でした。 そんな状況でしたからクリスマス終わったらもう完璧ですね。オーブンちらっと見て、その表面の状態を見て「後、何分で出る」と言えましたから。その表面の浮く状態を見てね・・・手では触りません。「この卵、浮きが悪いねぇ」と言われてオーブンをさっと見て「そうですねぇ」など話していたことを覚えています。 でもクリスマスが終わったら体はぼろぼろでした。寝られませんでしたからね。仮眠が3時間ぐらいが5日間で、最後の2日間は徹夜です。その次の日にね、「明日何時出勤ですか?」と聞いて寝たんですが・・・起きたらなんか雰囲気が違うんですよ・・・。丸1日経っていたんです!誰も起こしてくれなかったんです。後で聞いたら「あいつは起こしても無理だからほっとき」と言われてたらしいです。僕はここには2年居ませんでした。
【憧れのルノートルへ】 ローゼン製菓にいる頃から「ルノートル」のケーキにずっとあこがれていて・・・。日本に出店する前からね・・・。 池袋に「ルノートル」が出店したのがその頃なんです。それで次にその「ルノートル」へ行きました。その頃は僕で28人待ちと言われましたが知り合いの方を通してすぐに働くことが出来たんです。 「ローゼン製菓」では粉ばっかり・・・徹底的に経験したので、次はルノートルのケーキを触りたかった。その頃はドンクの青山とかがメジャーでした。だからドンクの方がいっぱいいらっしゃって、「えっ、大阪からきたの!」って感じでした。まだルノートルが出来て半年目ぐらいでしたからね。『ルノートル』は八尾店と合わせて6年間居ました。 入社してすぐ、八王子と八尾の東と西に出店計画があって、僕は八尾に行きました。だから、東京は1年弱しかいませんでした。 当時八尾店の小さい厨房に3億掛かったと言われてましたからね。この頃の器械は今でもトップレベルの器械です。まだ日本では販売していなくて船便で直接送られてきました。八尾のお店を任されてからも、池袋のアイスクリームのグラシエへ入ったりとかイベントがある時はまた大阪に戻ったりとか、けっこう動きがありました。 四国でチョコレート教室をやってくれとか、「つかしん」が出来るからイベントであめ細工を作ったりとか、 厨房での仕事が基本なんですが、「見せる」という場にもどんどん出されましたね。今では普通だけどもそのころでは珍しいやり方でした。すごく流動的な動きをしていましたね。いろんなことを経験させてもらいました。 「ルノートル」へ入って1番びっくりしたことは、入って3日間ずっとアーモンドの皮むき・・・、これがパンドジェンヌ用のローマジパン、次はプードル・・・これはフィナンセ用のプードル。ヘーゼルナッツとアーモンドを何対何で合わせて、挽いて・・・そんな素材の部分から出来たからすごいです。 ルノートルへ入るときに、「今までの経験はゼロと思ってきてくれ」「別の物を作ると思ってください」と言われました。 現場では、変わった人や勘違いしている人も居いたし、レシピだけを写そうとして短期間働く方もいました。色んなところで経験をつんでから来ている人が多かったです。けっこうシビアでしたよ。厳しかったです。
ルノートルでは焼き物は2週間ごとに常に新しいものが出てきたんです。今考えるとすごいです。ビスキューであったり焼き菓子であったり粉菓子であったり、キッシュ類も・・・。 レシピは張り出してありました。短期間だけ。新しい焼き物のメニューが出た時には仕事中トイレへ20回ぐらい行ってました・・・なぜならメモ書きをしたいから。レシピではなくて焼き方のコツのメモ書きをしたかったから・・・。 僕はローゼンのときに焼き物を先輩にしっかり教えてもらっていました。だから新しい焼き物も僕は一発で七割すぐに出来たんですよ。だから23,4歳でしたけれどレシピの糖分の割合を見ただけでメレンゲの立て方が分かったんです。 ローゼンはべたべたの街場でしたけれど、とても内容の濃い1年半だったんですよ。ルノートルではみんなは苦労していましたね。本当にローゼンの時の先輩に感謝ですよ! イタリアンメレンゲを立てるのも温度計は使ったらあかんということも習っていました。温度計を使ってもズレるし、温度計ではなく、泡の状態を目で分かるようにしなさいと言われていました。だから製菓学校の講師をするときも僕はそのことを教えます。実際の職場では温度計は意味が無い、温度計を使っていたら間に合わないしタイミングも分からない・・・温度見ながらメレンゲをまわすからね。 「ルノートル」に入ったときに濃いコーヒーをすごく飲まされて、「これが分からないとフランス菓子は分からない。」と言われて無理やり飲まされたことを覚えています。今思うに・・・そんなことはないと思います。(笑) 八尾店は3、4年居て、その後高槻のオープン立ち上げに行きました。 高槻店は1年半位居ました。この時にルノートルと西武の1回目の契約が切れて再契約する時期だったんです。パリとメニューが少し変ることもあって・・・次のことを考えることにしました。
【グランビア大阪へ】 やっぱりまた粉から触りたいと思ってグランビア大阪のアルバイトの面接を受けたんです。 グランビア大阪の募集はアルバイトでしたが良ければ社員の道も開けるというものでした。 グランビア大阪の面接は社長から以下5人が面接するんです。今も覚えている質問で「どこのケーキ屋さんが好きですか?」と聞かれ、間髪入れずに「ルノートルです」と答えました。「じゃぁどうして辞めたんですか?」と聞かれたので、「ケーキは基本的に粉から作らないと意味がないから、また一から触りたい」って答えました。・・・僕が27歳の時です。 レベルは別として、そこはまだ100パーセント製造を外注してなかったのでね。有名なホテルでも外注ばっかりのところたくさんありますからね。 試行期間の3ヶ月が終わった時点でアシスタントシェフの辞令がおりました。最終はグランシェフになりました。グランシェフになったのは38歳でした。ここには10年以上居ました。 ここでは、色んなことをさせてもらいました。パンにも興味があったので触らせてもらいました。 朝の5時に入って、朝食が7時からなのでその時になんとか焼きたてのパンを出したいと思って・・・。焼きたてのパンの朝食・・・、究極のことですよね。試行錯誤して低温熟成という方法で朝ソフトロール系を7時10分に焼きあがるようにしてお出しすることが出来ました。
グランビアでは本当に色々経験しました。例えばVIPの方の予約が入っているとき、イチゴを使って出してくれよと言われて、市販のイチゴではなく知り合いを通して『宝交』という品種のイチゴを取り寄せました。とよのかの原種です。 そこの畑に入らせてもらったら、板前さんが1個づつ採っているんです。その人は吉兆の方でした。後で聞いたらそういう人しか入れない畑だったらしいです。コックコートで入っているのは僕だけです。採らせてもらいすぐに車で帰って真空パックで潰して、そこにシャンパンを注いで出したんですけど、抜群に美味しいですよ。それは市場に回らないイチゴなんです。もたないんです。摘んでから6時間以内でないとね・・・。
自分のイメージ通りの味にするために素材にはこだわりました。 秋になると「銀よせ」という品種の栗を取り寄せて・・・、もちろん渋皮煮も自分のところで作っていました。皮を剥いてね・・・、みんな最初は嫌がってましたよ。「いいからやる」と言って、ちゃんと重曹からやってスジを取って・・・その渋皮煮をパックして冷凍しておくんですよ。 当時、ものすごく好評だったデザートがありましたね。「富士柿」が熟して、とろけるようになるものをソルベにして、しゃっきとした柿をスライスしたものの間にサンドするんです。その横に自家製の「銀よせ」栗の渋皮煮をパイに織り込んで丁度デザートのタイミングにあわせて焼きあげるんですよ。それが無茶苦茶に受けてね!自分でちゃんとした銀よせを引っ張ってきて、自分で渋皮煮をやったら本当に全然違う!って思いましたね。
【『大阪スクールオブキャナリーアート』開講立ち上げ】 グランビアを辞めるときに自分のお店をやりたかったのですが、一回決まりかけたんですが結局決まらなかった。 その時ずっと前から学校の先生の依頼を受けていたんです。神戸製菓専門学校と同じ系列です。『大阪スクールオブキャナリーアート』です。 講師陣はすごいメンバーが行ってますよ。林シェフ(モンプリュ)も多田シェフ(イグレックプリュス)も行ってますしね。西原シェフ(オ・グルニエ・ドール)も来てくれたしね。小さい学校でしたがそんなメンバーばかり来ていました。
僕が入った1年目はアンリ・シャルパンティエの田口シェフと2人で授業を組み立てていきました。 大阪校は出来てから3年目です。その名古屋校が今年スタートします。去年、名古屋校の立ち上げで、「リリエンベルグ」の横溝シェフのところへお願いに行って、募集の講習をやっていただきました。 今までにいろいろな方にいい話を聞きました。その中で、人間的にすごいと思った方は「サントアン」の塚口社長です。人間の幅がすごいです。パティシエという枠を超えています。 店のオープンのときにも急に寝袋を持って来て・・・、社長なのでもう仕事してないと思ってたんですが・・・3日間徹夜で手伝っていただきましたよ。年の話をしたら怒られるけれど、僕より数歳上だけど、体力もあるし早いし・・・。とてもお世話になりました。お店を立ち上げてからも・・・辛い時期になるとふっとハガキをくださったりして・・・精神的に本当に助けていただきました。 ・・・学校ではいろんな方と出会いました。自分のお店をやるときに学校を辞めさせてくださいと言ったんですが、「たまには来てください、出来るようになったら来てください」と言っていただいて名前だけを残してもらったんです。甘えさせてもらって、4月からは大阪校で月2回で名古屋校で月1回講師をします。 ここの学校の変わっているところは実際の企業から「企業課題」をもらうんですよ。OKが出たら生徒の作品がその企業に販売されるんです。 一番最初の課題をいただいたのが谷口さんというチョコレートパーツの大手です。全国規模の企業です。そこがショコラティエを出店していてそこで販売する商品という課題をいただきました。 ぼくが生徒と企業のクッション役で、「さぁ考えよう」とはじめる。すると、普通だったら考えないような、とんでもないルセットを持ってくるんです。生徒たちは・・・果てしなく素人ですからね。片方は企業ですから枠が固まっているでしょう。両端に分かれて接点がないぐらいズレているんですよ。 例えばホテルだったら「これ無理!」とポンッとはねるけれど、生徒は夢を持ってやっているので、じゃぁどうしたら出来るのか・・・そこから考えようということになるんです。 ですが・・・思考錯誤を重ねていくと、「絶対無理だ」の作品の中から全部採用になっていくんです。だからプロであってプロであってはいけないというのはそこにあると思います。理論から入って無理だではなくて、「これが欲しいな、どうやったら形にすることができるか考えよう」、・・・それが斬新なものを生み出していく。このことが学校へ行ってものすごく勉強になりました。枠がないというすごさですね。
「ショコラショコラ」 このケーキはスポンジのおいしさと紅茶の香りのガナッシュ系の味わいを食べてもらいたいと思って考えたケーキなんです。・・・・僕は紅茶味のチョコレートが好きなんですよ。その紅茶のガナッシュを元にちょっとシャンティで延ばしたものをサンドして、スポンジはチョコレートスポンジだけどちょっとやわらかめで、一緒に溶けてくれるけれど最後にガナッシュの味が残るようにしたかったんですよ。飲み込んだ後に最後にくるのが紅茶の香りなんですよ。食べ終わった後の香りと後口が狙いなんです。
「エスプッレッソブラウニー」 本当のエスプレッソ用のミルで挽いた細かい香ばしさというのがすごく好きなんですよ。それを何とか活かそうと思って考えたのがエスプレッソブラウニーなんです。エスプレッソと油脂と合わせたらその香りがずっと続くということが分かったんです。本来だったら香りが飛ぶんですけれど飛ばないんですよ。余韻が残っていく。ブラウニーってね、僕は喉にこもってくる甘さが嫌いなんですよ。だから抑えてあるんですよ。 最後にもう一個食べようかなと思うのは後口と香りでしょう?絶対にそこだと思います。
「卵ロール」 最近お客様が増えてきてます。百貨店とかでイチゴ入れて800円とかで売っているでしょう?でも卵ロールが好きな人はそんなものを乗っけるよりもシンプルが良いと思って。1,100円でも納得すると言われます。 卵と粉と砂糖以外何も入っていません。ロールケーキはロールケーキとしてちょっと引く強さを残しながら、やわらかいけれどちゃんとしっかりしている。他のスポンジケーキと狙いが違うんです。本当に卵と粉と砂糖だけです。卵のミキシング次第なんです。 ある程度は出来てましたがこの状態になったのは去年ぐらいからです。ロールケーキの専門店に行った人が来られ始めたんです。 「私はすごくロールケーキが好きでロールケーキはケーキの中で一番良いと思っている。有名なロールケーキのお店よりここが美味しいからここで買う」というお客様も居られます。うれしいです。 フランス菓子をやっている人でロールケーキを拒否する人けっこう居られるんですけど、ロールケーキの生地を追求することはジョコンドより難しいと思います・・・怒られるかもしれませんが・・・。 シロップもなにもなくこれ自体が勝負なんだから・・・、温度から立て方まで。卵ロールの生地と生クリームとの相性も良いんです。 「ルノートル」に居たのでフランス菓子しか作らないと思われていたんですがそんなことはありません。フランス菓子でも不味いものは不味いとはっきり言います。日本のケーキのほうが美味しいですもん。 子供が家で食べるケーキとしてロールケーキの比率は高いと思います。子供って水分を一緒に飲まないとだめでしょう? 水分を摂らずに食べられるロールケーキ・・・出来るだけそのケーキだけ食べて十分飲み込めるロールケーキ・・・どうしたらいいのか? ・・・ソフトプラス引きをあまり強くしない、でも水分は保たせたい。ずっとミキシングを変えていってこれになったんです。ロールケーキは美味しいです。子供って正直です。利害関係なしに美味いか不味いかしかないんですよ。自分がお金を払うわけではないから・・・買いやすさは関係ないですからね。(笑) プリンとかロールケーキはお母さんの財布の中に1000円あって子供と家族4人で1個250円、だったらプリンとシュークリームとロールケーキをセットすれば絶対買えるよね。でもそれは安物ではないですよ。 ウチはロールケーキもシューもプリンも技術力を一番入れています。その原価の中で出来る最大限の技術を注いでいます。恐らく試作のなかではこのロールケーキはどのケーキよりも多くしています・・・。この値段でこの材料を最大に活かして美味いものを作るということで・・・。 だからケーキでは450円のものもあるけれどプリンは160円、シューは130円。絶対的に子供が美味いと思えるぐらい技術力は集中してやっています。プリンは卵と牛乳と砂糖以外何も使ってません。バニラビーンズも使ってません。パティシエールもここまでしたら心配ないというところまでしっかり炊いています。 実際・・・今僕はこの3本の指がしびれています。毎日ずっとやっていると回復しません。でもパティシエールは絶対自分で炊いています。材料原価が安いものにどれだけ付加価値を生み出すことができるのかが僕らの仕事です。卵ロール、シュー、プリンの3つは子供達が安心して絶対美味しいと思えるレベルまでもって行きたいというのがあるんですよ。絶対美味しい状態で食べてもらいたい。一番子供の口に入る可能性が高いから。
後は今やり始めているけれど、国内の産直のもの・・・それを自分が今出来る範囲で加工して出したいですよね。たしかにフランスの材料もいいですけれどやはり地元で採れたものを使うのが一番美味しいと思います。それをどうしたら美味しくなるだろうとスタッフと一緒に話し合いながら出来たら楽しいですよね。 それから、子供向けの簡単なケーキ教室をやりたいです。そしてあと一つはホテルの頃からやっているボランティア。自分が出来る仕事はこれだから、これを活かして何か役に立てることをしていきたいです。ホテル時代、病院に入院されていて社会復帰するのも金銭的にも体力的にも今は苦しい方々に50円で紅茶とケーキを出したいと言われて、ボランティアで行かせて頂いたことがあります。その現場へ行くと冷蔵庫もないしオーブンもないのでどうやって作ろうかと考えました。発砲スチロールがあったのでそこに氷水を溜めてクッキーを仕込んでそこでねかせたら何とか作れた。クッキーを焼くにもホットプレートしかないので、焦げないように調整をしてクッキーを焼きました。僕はホテルの頃からそういうことをお休みの日にしてました。自分がプロとして身につけた技術をそういうところで活かしていく活動をまたやりたいですね。
私が特に興味深く聞かせていただいた専門学校の授業のお話・・・好奇心旺盛な熱血先生!まるで学園ドラマに出てくるような先生みたいだなぁ・・・と思いました。中でも専門学校での企業課題のお話しには、シェフ自身のモノつくりへの根本的な姿勢や何事にも本当に前向きで『壁』をもたれていない姿勢に感銘を受けました。こんな指導者に出会えた生徒たちは本当に幸せだろうなあとさえ思いました。 ・・・お話を終えた後、写真撮影のため厨房にお邪魔しました。厨房には専門学校時代のシェフの教え子さんがパティシエールとして生き生きと働く姿がありました。
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